安達太良山という火山のお話
スタイル郡山9月号
磐梯山噴火記念館 館長 佐藤 公
東側から見た安達太良火山 (岳温泉観光協会)
福島県民にとって、安達太良山は二本松の火山として親しまれている。それは奥岳からのロープウェイを使って登山するのが最もポピュラーであるからだ。
この山が日本語で最初に出てくるものが万葉集である。その中には東北を詠んだ歌が8首あり、その中の3首が安達太良山である。当時、そんなに有名だったのだろうか。
近代に入り、安達太良山を有名にさせた詩がある。それは高村幸太郎の『智恵子抄』の中の「樹下の二人」である。冒頭に「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」とある。光太郎は智恵子といっしょに二本松の智恵子の実家の裏山で読んだのだろうと言われている。
安達太良山を火山として考えた場合、山頂だけが火山ではなく、北側の鬼面山から南側の和尚山までの南北約15kmにある山々の総称である。活動は約50万年前から開始し、最初は鬼面山から次は和尚山へ、そして安達太良山へと活動場所を変えていった。
過去1万年はすべて沼ノ平から噴火をしている。その中で最大規模の噴火は、1万年前で、火山灰は現在の二本松市街地周辺に数cm積もった。
西側から空撮
1824(文政7)年9月7日[旧暦で8月15日]に、岳山崩れと言われる災害が発生した。既に200年近く経過しているため、地元でもあまり知られていない。当時の岳温泉は現在のくろがね小屋近くにあった。8月下旬から大雨が続き、9月7日の午後10時頃、鉄山の南側の斜面が大きく崩れ、当時の岳温泉を襲った。湯治客と従業員63人が犠牲となったと二本松市史には記載されているが、湯小屋で働いていた女郎約100人は含まれないとなっている。江戸時代、こういった女性は住民票に登録されず、人としての扱いを受けていなかったのである。亡くなった人の慰霊碑が、岳温泉の中心から南側約300mの所にあるが、訪れる人もほとんどいない。あと3年で、岳山崩れから200年という節目の年を迎える。二本松市では、ぜひ、この災害で亡くなられた方々の慰霊祭を盛大に行っていただきたい。岳山崩れ以降、鉄山の南側では、何度か大雨により斜面崩壊が発生している。火山というものは実は大雨に弱い地質である。磐梯山でも1888年の噴火以降、2度大雨により斜面崩壊を発生させている。
岳山崩れの図 (福島県歴史資料館)
今年は1900(明治33)年の安達太良の噴火から120年という節目の年である。しかし、この災害も地元では忘れられている災害なのである。噴火が発生した沼ノ平には硫黄の精錬所があった。その工場の隣りに火口が開いたのである(下の図)。前年の1899年にも小規模な噴火が発生していたが、この工場は操業を継続していた。1900年3月にも小規模な噴火があり、7月17日を迎えることとなった。この日最初の水蒸気噴火は16時頃に発生し、18時過ぎに最大規模の噴火が発生した。13歳の少年は最大規模の噴火以前に避難を開始していたために助かったが、多くの従業員は最大規模の噴火時の避難であったため、死者行方不明者合わせて80数名の被害が発生した。
噴火地沼ノ平略図[南北逆転] (国立公文書館)
これだけ多くの犠牲者を出しながら、地元猪苗代町ではこの災害についてあまり語り継いでこなかった。それは犠牲者の多くが県外からの労働者であったためと思われる。噴火100年の2000年には猪苗代町町長も参加した慰霊祭が開かれたが、それ以降はまったく行われていない。ますますこの災害が風化していくことに危惧したため、磐梯山噴火記念館では、噴火120年の今年、企画展「安達太良火山」を開催している。
合わせて、9月12日の14時から福島県立図書館の講堂で、安達太良火山のシンポジウムも開催する。
1997年には、火山ガスで登山客4人が沼ノ平で亡くなった。火山は噴火だけでなく、様々な現象で災害を発生させるものなのである。
今後も、地元で発生した大規模自然災害について語り継いでいきたいと考えている。
執筆者/磐梯山噴火記念館 館長 佐藤 公 さん